教えのやさしい解説

大白法 519号
 
広宣流布(こうせんるふ)
  「広宣流布」とは、『薬王菩薩本事品(ほんじほん)』に、
 「我が滅度の後(のち)、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶(だんぜつ)せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉(やしゃ)、鳩槃荼(くはんだ)等其(そ)の便(たより)を得(え)ん」(新編法華経 五三九)
と説かれているように、末法濁悪(じょくあく)の世において、日蓮大聖人の仏法を広く宣(の)べ、未来永劫(えいごう)にわたって一閻浮提に流布していくことをいいます。
 この広宣流布の浄願(じょうがん)は、『見宝塔品(けんほうとうほん)』の六難九易(ろくなんくい)に見られるように、たやすく成就(じょうじゅ)できるものではありません。
 なぜなら、末法の人々は妙法の下種を受けていない衆生であり、邪宗邪義によって人心(じんしん)が撹乱(かくらん)した毒気(どっけ)深入(じんにゅう)の衆生です。このような謗法充満(じゅうまん)の衆生は素直に正法(しょうぼう)を聞かず、かえって怨嫉(おんしつ)して正法の行者を迫害(はくがい)するのです。
 しかし、大聖人は『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』に、
 「日蓮一人(いちにん)はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是(これ)あに地涌(じゆ)の義に非(あら)ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(御書 六六六)
また『報恩抄』に、
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし」(同 一〇三六)
とのように、南無妙法蓮華経の正法は必ず世界の人々に唱えられて広宣流布する、と大確信をもって説かれています。
 そして、広宣流布の悲願(ひがん)が成就するならば、『如説(にょせつ)修行抄』に、
 「天下(てんか)万民諸乗(しょじょう)一仏乗と成(な)りて妙法独(ひと)りはむ昌(じょう)せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝(えだ)をならさず、雨土(つち)くれをくだかず、代(よ)はぎのうの世となりて、今生(こんじょう)には不祥(ふしょう)の災難を払(はら)ひて長生(ちょうしょう)の術を得(え)、人法共(とも)に不老不死の理(ことわり)顕はれん時を各々御(ご)らんぜよ、現世(げんぜ)安穏の証文(しょうもん)疑ひ有るべからざる者なり」(同 六七一)
とのように、人災(じんさい)や天災に脅(おびや)かされることもなく、平和な仏国土を築(きず)くことができます。
 そのためには、第二祖日興(にっこう)上人が『日興遺誡置文(ゆいかいおきもん)』に、
 「未(いま)だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力(ずいりき)弘通を致すべき事」(同 一八八四)
と門下(もんか)を督励(とくれい)されているように、身命を捨てた随力弘通、すなわち折伏こそ大事です。
 広宣流布は絵に画(か)いた餅(もち)ではありません。今こそ南無妙法蓮華経を信受(しんじゅ)する一人ひとりが、身口意(しんくい)の三業(さんごう)をもって常に折伏弘通に精進しなければ、広宣流布への盤石(ばんじゃく)な基礎(きそ)を構築(こうちく)することはできません。
 正しい御本尊と教義(きょうぎ)を根本とし、血脈(けちみゃく)付法(ふほう)の御法主上人猊下の御指南のもと、僧俗異体同心(いたいどうしん)して折伏弘通に全力を尽(つ)くすところに広宣流布はあるのです。